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Secret to Happiness 幸せの秘訣

幸せの秘訣

エリック・チャン牧師による”質の高い生き方”についての説教集第2話

95年3月 於トロント

クリスチャンとしてあなたはどのように生きていますか?

最近、私は”生き方”について随分と考えてきました。前回の説教の中で、生活の全てのことは生き方と関係があると指摘しました。これはクリスチャンになると決意することも含みます。

クリスチャンが次のような証しをするのを聞いたと想像してみてください。「クリスチャンではなかった時、私はとても幸せでした。毎日心が喜びで満たされていました。あまりにも喜びでいっぱいなので、とうとう最後に、そろそろ惨めになる時が来たと思ったので、クリスチャンになろうと決意したのです。」

私は今だかつてこのような証しを聞いたことはありません。皆さんもそうでしょう。しかし、例えそんな証しを聞いたことがなかったとしても、このようなことが実際よくクリスチャンに起こっているようです。彼らがキリスト教未信者として本当に幸せだったのかどうか、私には分かりません。しかし、彼らはクリスチャンになった後、かなり惨めになってしまったようです。一生懸命幸せに見せようとしても、大抵はうまくいきません。

一体何が問題なのでしょうか?ここでお話したいのはこの質問についてです。あなたはクリスチャンとしてどのように生きていますか?

まず最初に何故人はキリストのもとに来たがるのでしょうか?それは惨めになりたいからでしょうか?中にはクリスチャンになる前に、クリスチャンになるにはその約束を守らなければならず、クリスチャン生活というのは難しいということを承知していた人もいたかもしれません。しかし、それでもなお私たちは、「いえ、いえ、とてもあなたの要求にはこたえられません。また別の機会にお話しましょう。」と主イエスに言った金持ちの若い役人のようにはならないことを決意したのです。では何故、犠牲と約束が要求されるにもかかわらず、クリスチャンになりたいと思うのでしょうか?

ヒマラヤ登山者の精神

私は去年ネパールに行きました。飛行機がインドからネパールに向かっている時、飛行機に乗っていた誰もがヒマラヤをとても見たいと思っていたので、ほとんど全部の乗客がその山をひと目見ようと飛行機の片側に押し寄せました。これで飛行機がひっくり返ってしまうのではないかと思いました。誰もがヒマラヤ山脈の美しさと荘厳さに打たれていました。ヒマラヤ山脈を山の上を飛んでいる旅客機の気圧が正常に保たれた客室から遠くに眺めるのはとてもいいものです。しかし、中にはこのようにヒマラヤ山脈を眺めるだけでは満足できない人もいます。そういう人達はどうするのでしょうか?彼らは山を登るためにネパールにやって来るのです。彼らは寒さも、厳しさも信じがたいほどの危険も顧みません。

何故彼らはそんなことをするのでしょうか?これらの登山者の中にはヒマラヤ山脈の裾野を登るだけでは満足しない人もいます。彼らは一番高い頂上まで登りたいと思います。それは本当に命がけで、実際多くの人が命を失いました。私たちの「質の高い生き方」の定義はソファにもたれかかって何もしないで座っていられることかもしれませんが、登山者にとっての良質な生き方とは、高い所へよじ登り、世界を頂上から眺めることです。例えそれが何年もの大変な登山訓練と酸素の薄い空気を吸う困難さに耐えなければならないことを意味するとしてもです。彼らにとっての良質な生き方というのは楽に時を過ごすことではなく、質の高い時を過ごすことです。とうとう最高峰に到達して、世界を見下ろす時のぞくぞくする快感は登山者だけが知っています。長年の訓練はこの素晴らしい瞬間に備えるためなのです。彼らにとっての良質な生き方とは克服すること、つまり勝ち目のない勝負に信じがたい勝利をおさめることなのです。

おそらくこういう人を主イエスは探しておられると思います。イエス様は彼の使徒になるのは難しいことだとおっしゃっています。イエス様は良質な生き方とは肘掛け椅子にゆったりと座っていることではなく、霊的な山の頂上を征服しようとする意欲を持つことだと思う人を好まれます。

全てのことはより良い生活を追求するためです

生活上のあらゆることは、私たちがどのように理解していようと、生き方に関することです。ショッピングセンターやデパートに行くと、洋服を売る店がたくさんあります。私は時々誰がこんなに沢山の洋服を買うのだろうかと思うことがあります。というのは自分が持っている洋服はとても長持ちしているからです。しかし、明らかに多くの人々にとって、服装は生き方なのです。ですから衣服を買わずにはいられないのです。それが良質な生き方だと理解しているからです。

もう1つ別の例を見てみましょう。あなたは家にテレビを持っていますか?もちろん、誰でもテレビを持っています。あなたのテレビは白黒テレビですか?もちろん、違うでしょう。それはもうずっと以前にすたれてしまいました。では、あなたにお聞きします。白黒テレビの何処がいけないのでしょうか?白黒でニュースを見たら、間違ったニュースを聞くことになるでしょうか?ニュースのアナウンサーが着ている服の色を見ることはそんなに重要なことでしょうか?とんでもありません!では何故皆カラーテレビを買うのでしょうか?カラーの方が良いからだと私たちは言います。より綺麗に見えますが、ニュースの質とはほとんど関係がありません。それは生活の質と関係することなのです。この生活の質を絶え間なく向上させるために、何百万ドルもかけてより美しい色と技術的な完成度を追求する科学的研究が行われています。そうすれば彼らは私たちの懐からもっとお金を搾り取ることができるのです。

何故私たちは医学的研究をするのでしょうか?それは癌などの病気の治療法を見つけたいからです。しかし、私たちはこう質問したことがあるでしょうか?「癌になることの何処がいけないんだろう?たくさんの人が癌にかかっているのに、何がそんなに大変なことなんだろう?」こんなことを質問すること自体馬鹿げています。何故なら答えはおのずと明らかだからです。癌になれば死んでしまうのですから、私たちにとって癌にかかることは大変なことです。知っての通り、死は命の終わりを意味します。癌が生活に何の影響も及ぼさないというような生き方をしている人がいるでしょうか?ですから、命を持続させる方法を探そうとして、多くのお金と人力が医療研究につぎ込まれているのです。薬局でありとあらゆる種類の痛み止めや咳止めの薬を見かけます。それは、私たちが痛みや咳が命の質を損ない、生活を楽しむことを妨げるということを知っているからです。

神様は私たちに惨めになってもらいたいと願っておられるでしょうか?

明らかに、良質な生き方が生活にとって必須であるなら、それは霊的なレベルでも同様です。神様に関してだけ突然違う意見を持つのは止めましょう。私たちは時々、神様は生き方について違う見方をされているのではないかと疑うことがあります。神様にとって、良いクリスチャンというのは不幸なクリスチャンなのではないかと考えます。不幸になればなるほど、より霊的である。そんなことをよく耳にしませんか?その道理はこうです。キリスト教未信者の世界ではいつも快楽のことばかり話しているので、何かを楽しむということは現世的なことに違いない。それならばその反対も真理のはずである。つまり、惨めであることは霊的であることに違いない。それで、私たちは時として幸せに感じると、何か霊的でないものに陥ったに違いないと考えて罪悪感にさいなまれたりするのです。

修道院の僧侶達を見てみましょう。彼らは不幸を霊的であると考えていないでしょうか?彼らは、粗末な服を着て粗食し、現世的な楽しみのほとんどない生活をしています。また、彼らは沈黙の生活を送らねばならないこともあります。多くの修道院では毎日長い沈黙の時間が守られています。話すことさえできないのですからもし笑ったりなどしたらどんな罰が待っていることでしょう。いかなる形の享楽も禁じられているようです。私たちには、彼らが敢えて不幸を求めているように見えます。

おそらく私たちは彼らのことを誤解しています。ヒマラヤ登山者のように、彼らは違った種類の質の高い生き方を求めているのです。ヒマラヤ山脈を登るのに、登山者には綺麗な服装など必要ありません。崖にぶら下がっている時、”ケンタッキーフライドチキン”を楽しむことはできません。ですから、彼らが懸命に目標、つまり山の頂上に到達しようとしている間、普通の生活の楽しみは脇に追いやらねばならないのです。もし修道僧が真に神様の内なる喜びを求めているなら、それは立派なことです。彼は自分が違った種類の質の高い生き方を求めていることを分かっているのです。しかし、もし彼が単に不幸な生活をすることによって魂の救済を成し遂げようとしたり、救われる方法は不幸になることだと考えているなら、全く見当違いです。

パウロはこの質の高い喜びを得ていました

聖パウロはテモテへの第一の手紙第6章17節で、非常に大切なことを言っています。”神はわたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませてくださる。”聖パウロは苦痛と苦難についてとても良く分かっている人でした。彼は真のキリストの兵士でした。しかし、もしあなたが彼と共に生きていたなら、彼の人生に質の高い喜びがあることを見出したでしょう。私たちはどうでしょう?私たちのことを知っている人たちは私たちの人生に何を見出すでしょうか?どのような生き方を見出すでしょうか?彼らは私たちの内に御霊の実を見出すでしょうか?

私たちは皆、御霊の実のことを知っています。(ガラテヤ人への手紙第5章22-23節)御霊の9つの実を見てみると、1つ1つが生き方と関係があることが分かります。そのメッセージは明らかではないでしょうか?神様は私たちにこの特別な質の高い生き方ができるように聖霊を与えてくださいました。つまりそれは温かな愛、豊かな喜び、静かな平安などです。この他にも忍耐や、優しさなど全ての美しい資質を挙げて行くことができます。それはつまり、聖霊に満たされた生活をしていると、私たちはこういう質の高い生き方ができるということです。もし私たちがこれらのものに満たされているとしたら、それでもなお不幸でありえるでしょうか?では、逆にもし、私たちが不幸だと感じているなら、聖霊に満たされることは可能でしょうか?あなた自身の生活を見てみてください。今、どんな状況に置かれているか考えてみてください。あなたは今どのような生き方をしていますか?

神様は私たちの幸福を願っておられます

聖書の中のあらゆる箇所で、神様が生き方のことを気にかけておられるのが分かります。主イエスが奉仕を始められた時、”至福”としてよく知られている教えを説かれました。(マタイによる福音書第5章3節)中国語の聖書では”八福”と呼んでいますが、しかし実際には聖霊の9つの実に相応して、”さいわいである”という言葉で語られた9つのフレーズがあります。”さいわいである”というのは”幸せである”という意味だということも興味深いことです。ですから、最初の節を、”こころの貧しい人たちは、幸せである”と訳すことができます。私は、いつもこのように訳されていれば良いのにと思います。何故なら、”さいわいである”という言い方はほとんどの人にとってあまりピンとこないからです。このように、マタイによる福音書では主が「~の人たちは、幸せである。」と9回おっしゃっています。

注目していただきたいポイントは主イエスが幸福を強調して奉仕を始められたということです。あなたは幸せですか?私は幸せでしょうか?もし、そうでなければ、主イエスの奉仕がまだ私たちの所まで到達していないということになります。

心の清さ - 幸せの秘訣

幸福の秘訣とは何でしょうか?”至福”の中の1つを見てみましょう。”心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。”(マタイによる福音書第5章8節)ここで、もし私たちの心が清ければ、神様が私たちに幸せを与えてくださるということと、そして幸せとは神様を見ることであるということが分かります。特にこの箇所で言われているのは、原則的に私たちの心が清くなければ、主にあって幸せになることは決してできないということです。”清い”(pure)と訳されている言葉は、文字通りに言うと”清潔である”(clean)という意味です。もしあなたの心に何か不潔なものがあると、喜びが持てないと言うことです。

これは理論上のことではなく、実際のことなのです。例えば、もし私たちが心に何か苦々しい思いを持っていたり、或いは誰かに嫉妬していたら、それでもなお幸せでいられるでしょうか?無理です。何故なら罪、或いは不潔さが私たちの心全体を汚染しているからです。欲を例にとって見てみましょう。欲深さが心にあると、決して幸せにはなれません。何故なら私たちは自分の持っているもので決して満足しないからです。もし、私が教会で良い車に乗っている人に嫉妬していたら、私の喜びは消えてしまいます。不潔さが心にあると、喜びは存在し得ないのです。これは抽象的な理論ではありません。実験室でテストしてみることができるほどに確かなことです。私たちはそのことを自分の人生経験から分かっています。

聖霊にあらゆる不潔さを探し出してもらいましょう

こういうわけで、主にあっての幸福と喜びを願っているなら、私たちは聖霊にあらゆる不潔さを探し出してもらわなければなりません。もしほんの少しだけ不潔さがあったとしても、喜びは取り去られてしまいます。神様は私たちに豊かな命を享受してもらいたいと願っておられることを憶えていてください。これは単に私たちの幸福のためだけではなく、私たちが世の光となることができるためなのです!悲しいことに、私たちは自分自身ですら光を持つことができないことがよくあります。それでは世に光をもたらすことなどとてもできません。自分が何処に向っているのかがほとんど見えていないのですから、ましてや他の誰かを助け導くことなどできません。

オレンジを搾れば、オレンジジュースが出てくることは皆分かっています。そんなことは子供でも知っています。では、オレンジを非常にきつく搾ったら、アップルジュースが代わりに出てくるでしょうか?或いは「トマト、トマト、トマト。」と言いながらとても優しく絞ったら、トマトジュースが出てくるでしょうか?その答えは明らかです。しかし、多くのクリスチャンの間で、面白い現象が起こっています。クリスチャンを優しく搾り、ほんの少しだけ、プレッシャーをかけると、結果として少しはキリストの使徒らしさが見られます。オレンジジュースと同じです。しかし、人生で例えば交通事故のような何か大変な事が起こると、結果として、トマトジュースよりもっと酷い、多分酸っぱいレモンジュースが出てくるのです!

もし明日の朝、職場で同僚がうっかりあなたにコーヒーをひっかけてしまったとしたら、あなたはどう反応しますか?オレンジジュースでしょうか?トマトジュースでしょうか?それとも、もっと酷いものでしょうか?あなたは飛び上がって、同僚の胸ぐらをつかみ「いったい何だって言うんだ?君はめくらなのか?僕のシャツを見てみろ、台無しじゃないか!」その同僚はあなたの教会では使徒としてライオンを訓練しているのか、それとも使徒をライオンになるように訓練しているのではないかと思うかもしれません!

ジュースを見ることによって自分自身を知りましょう

これらのことから私たちは何を学ぶことができるでしょうか?もし私たちの心が清く、全く汚れが無いとしたら、乱暴に搾られても優しく搾られても私たちの反応に差は無いはずです。もちろん、私たちにも言い分があります。もし、不意打ちを食らわなかったら、こんなふうには反応しなかっただろうと。私がもしあなたに不意打ちを食らわせたら、あなたはどのように反応するでしょうか?ある日、私が変装して、あなたに飛びかかって地面に組み伏せたとしたら、あなたはどのように反応するでしょうか?「いったい何なんだ?お前はめくらなのか?」と言うでしょうか?私の胸ぐらを署ルんで何発かパンチを食らわせるかもしれません。

しかし、神様が私たちの内にあるものを見つけ出されるにはこの方法しかありません。神様が突然あなたを動揺させられる時、自分がどのように反応するか気がついていますか?どのように反応するかが、あなた自身(と他の人々)にあなたの本当の姿を映し出すのです。

もし突然誰かがあなたに結婚のことや子供のこと、あるいは気に障るようなことや当惑するようなことを質問してきたらどうしますか?その話題を避けようとしますか?急に約束に遅れていたことを思い出したようなふりをしますか?私たちがあまり話したくないとか、触れられたくないとか思っている事柄とは何でしょうか?もし、私たちがそういう傷を持っている場合には、喜びが持てないのも不思議はありません。

神様は私達が幸福であることを望んでおられる

私が今皆さんにお話しているのはとても実際的なことです。神様は私たちが喜びをもつことを望んでおられます。それは、ただあなた自身が幸せに感じられるようにだけでなく、他の人たちにも影響するからです。私たちが不幸な時、周りにいる家族や教会の人たちも不幸に感じさせてしまうということに気が付いていますか?人々が輪になって集まっている時、もし1人の人が陰気な顔をしていたら、間もなくその人を見て他の人たちも皆陰気な気分になってしまいます。ですから、不幸は教会全体に影響を与えます。

私たちは”世の光”であれと言われています。それはとても霊的なことのように聞こえます。しかし、いずれにしても霊的であるとは一体どういうことでしょうか?私たちは霊的であること(霊性)を明確に定義することができるでしょうか?多くの人は、霊的な人とはとても病的で、謙遜の結果かなり背が曲がっていて、現世のことに構っている暇が無いせいでとても趣味の悪い洋服を着ている人というようなイメージを持っています。また、あまりにも幸せそうに見えるのは教会に相応しくない態度だと考えているので、教会ではとても厳粛で、適度にしか微笑まない人というようなイメージです。これが真の霊性でしょうか?主をもっと良く理解すれば、霊性についての私たちの考えは変わると私は確信しています。

あなたの生き方は他の人々を惹きつけていますか?

職場で、私たちがいつも聖書を振りかざしていたら同僚は私たちに惹きつけられるでしょうか?私たちが「私はイエス様のものです。」というバッチを着けていたら、彼らは惹きつけられるでしょうか?それとも私たちの生き方を見て、彼らは「わあ。この人は違う。愛と喜びと平和がある。何だか分からないけれど、でもこの人には何か特別なものがある。」と言うでしょうか?こういう特性というのは演じることができるものではありません。私たちがそういうものに満たされていると、自然にそれが私たちの内から流れ出すのです。しかし、私たちはむしろそれを”搾り”出さなければならない状態です。

主イエスを知っていた人々が、私たちもイエス様のようになることができるように、イエス様がどんな方だったかを教えてくれました。イエス様はどんな方だったでしょうか?ヨハネによる福音書第1章14節にこう書かれています。”わたしたちは、その栄光を見た。...めぐみとまこととに満ちていた。”この”満ちていた”という言葉に注目してください。めぐみは愛を表す言葉です。愛のあるところには、めぐみがあります。めぐみがあるところには、愛があります。この2つは分かちがたいものです。そして、そこにはまたまこと(真実)があります。真実は常に清いものです。真実と潔白と清潔もまた分かちがたいものです。

イエス様はめぐみとまこととに満ちていらっしゃるので、イエス様から出てくるジュースは決して私たちに不快な驚きを与えたりしません。内に満ちているものが外にあふれ出てくるのです。不意打ちを食わされ、打たれ、あざけられてさえも、イエス様から出てきたものはやはりめぐみとまことでした。ですから、イエス様は悪口を言われても仕返しをされなかったのです。同様に、使徒パウロも”はずかしめられては祝福し、”(コリント人への第一の手紙第4章12節)と言っています。十字架にかけられた時も、イエス様の生き方はやはり同じく、めぐみとまことに満ちていました。”父よ、彼らをお許しください。”(ルカによる福音書第23章24節)やりがイエス様の脇に突き刺された時、血と水とか流れ出ました。それはめぐみとまこととを象徴しています。

あなたの内にあるもの、私の内にあるもの、それが流れ出るのです。そして、その流れ出てくるものが、使徒パウロが言うところの、”いのちからいのちに至らせるかおり”(コリント人への第二の手紙第2章16節)であるようにと祈ります。薄荷の葉を取って砕くとその香りが漂います。あなたが砕かれると、何が出てくるでしょう?険悪な反応でしょうか?それとも主イエスと同じ芳しさでしょうか?

私たちの内にあるストレスに注意しましょう

非常に具体的に私たちの内なる反応をチェックしてみたいと思います。あなたが家や職場で休んでいる時、自分をチェックしてみてください。体の中に緊張があるかどうか注意してみてください。なぜなら、それが私たちの”ジュース”を物語っているからです。緊張していると、喜びがありません。中には寝ている時でさえ、歯軋りする人がいます。緊張の原因を探し出して処置しましょう。それはある種の不安でしょうか?例えば、グループで分かち合いをする順番が回ってくると、私たちはかなり不安になります。不安になるのは自然なことです。何故なら、自分が分かち合うことを皆がどう思うだろうかと気にするのは自然なことだからです。一方、私たちがグループや教会の中で真にお互いを愛しているなら、この恐れと不安はなくなります。恐れは不安を引き起こし、不安は緊張を引き起こします。それが人に対する恐れなのか、愛が足りていないせいなのか、自分自身をチェックして見てください。

私たちの生活を潔白に保ちましょう

私たちには誰しも生活の中で、心を潔白にするために清められねばならない点が色々あります。もし瓶の中の水がたった1%でも汚染されていたら、瓶の水全体が清潔とはいえません。その汚染された1%が残りの99%を汚染してしまいます。清潔であるということは完全に清潔でなければならないということであり、そうでなければ本当に清潔であるとはいえません。清潔な白いシーツにほんの少しでも汚れている部分があったら、そのシーツはもはや清潔とはいえません。

“心の清い人たちは、さいわいである。”というのは、もしその人が主にあって幸せであるなら、心は必ず潔白でなければならないという意味です。そこには一点の汚れがあってもいけないのです。ですから、ダビデはこのように祈りました。”神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。”(詩篇第139編23-24節)彼は自分の中にほんの少しでも悪しきところがないか、汚れたところがないかを知りたかったのです。何故ダビデはそれほどまでに気にしていたのでしょうか?誰でも少しぐらい汚れたところがあるのが自然なことではないでしょうか?いいえ、もし喜びを持ちたいなら、そしてもし、キリストによる豊かな命を享受したいなら、そうではありません。喜びに満たされ、キリストによる豊かな命を享受したいと思うからこそ、私たちは主に”主よ、どうか清めてください。清くなれますように!”と助けを求めるのです。

ですから、あなた方1人1人が今年、パウロが言うところの”神様が全てのものを私たちの喜びのために豊かに与えてくださった”という経験をすることができるようにと切に祈ります。そして、またパウロがコリント人への第一の手紙第11章28節で”だれでもまず自分を吟味し”と言っていますが、それは聖餐式であるとないとにかかわらず、そうすべきです。パウロは続けてこう言っています。”あなた方の中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくない。”

ほんの少しの汚れが私たち全体を肉体的にも霊的にもだめにしてしまいます。

今晩、寝る前に主に心を探っていただき、また主とともに自分でも心を探って、何か主が取り除きたいと思われるものを見つけてください。(それは憎しみや苦々しい思いなどで、あなた自身がもう忘れてしまっているものもあるかもしれません。)このようにすれば、今晩はきっとよく眠れて、眠っている間に歯軋りすることもないでしょう!あなたの心が清く保たれ、主にあっての喜びを持つことができますように。

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