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How I Have Come to Know God 神を知るようになったか - 第1章

わたしがどの]ようにして

神を知るようになったか

エリック・H・H・チャン

この本をあらゆる問題や状況に直面しても信仰を失わず確固たる信念を持ち、その生き方と証しがわたしの励ましであり続ける、中国にいる全ての使徒たちに捧げます。

目次:

編集者前書き

謝辞

序文

1. わが青春の夢

2. 神様との出会い

3. 神様とともに歩む

4. ロンドン時代

編集者前書き

21世紀に生きるわたしたちは早いペースでいつも多くの些事を追いかけており、ゆっくりと人生について”わたしはたちはどこへむかっているのだろうか?どこへむかっていくべきなのだろうか?”と思いをめぐらせる時間がほとんどありません。”人の限界が神がその人の人生に働かれる始まりである。”というのは多くのひとにとって真実でありますが、だれもが先延ばしにしないで、手遅れにならない前に神様をじかに体験し、知ることができればと思います。

著者および彼の伝記を紹介できることを大変光栄に存じます。わたしは学生の頃からエリック・チャン牧師のことを知っていまが、彼は過去20年以上に渡ってわたしの霊的指導者であり、助言者でした。これらの年月の間、神がこの忠実な僕を通してなされた働きを見るのは大変な喜びであります。

わたしがどのようにして神をしるようになったか は現在4章からなっています。1,2,3章は1985年にメルボルンで、4章は1998年クアラ・ルンプールでそれぞれエリック・チャン牧師が証しされた中から書き写されました。神様がひとりの人の人生においてなさったことを読むにあたって、わたしたちも神様がわたしたちの人生において同じように働いてくださることを祈るべきだと思います。主の御心によって、エリック・チャン牧師は将来さらに広い範囲にわたって証しされることと思います。オアシス文献ミニストリーは

神の祝福を運ぶ器として用いられることをを光栄に存じております。

われらの救い主イエス・キリストの御名があがめられますように!

レイモンド・スエン

2000年香港にて

謝辞

この証しの出版を準備してくださったレイモンド・スエン牧師とテープの原本から大部分を書き写して下さった、彼の親愛なる妻ロザブランカへ心から感謝いたします。また、以前の録音から書き写してくださった方々にもお礼申し上げます。わたしはその方々のお名前を存じませんが、主は確かにご存知であられます。これら全ての方々の働きによって、この証しを出版することができ、その目的はこの証しを通して全てのひとが”真実なかたを知り、そしてわたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。”(ヨハネ第1の手紙第5章20節)ことを知ることであります。

EHHC

わたしがどのようにして

神を知るようになったか。

序文

あなた方の中に私の主における体験について尋ねる人達がいるので、この機会に私の証しを分かち合うことにいたします。普段私が説教壇に立つ時は神の言葉を説くのが常ですから、これはいささか珍しいことです。今日は私のクリスチャン・ライフのふたつの側面についてお話したいと思います。それは私がどのようにしてクリスチャンになったのかということと、そしてどのようにして主に仕えるものとなったのかということです。間もなくご説明するように、これらふたつのことは私のクリスチャン・ライフにおいて互いに切り離しては論じられない側面であります。

私の証しを聞いている間、あなた方の注意が神様が何をして下さったかということに注がれますように。証しをすることにおいて私が懸念するのは、聞く人の注意が主ご自身よりも証しする本人に集中してしまうことです。もし、あなた方が単に体験そのものに魅了されるだけなら、意味がありません。しかし、もし神様が私の人生において成してくださったことを聞いて、”神様が彼にそのようなことをして下さったのなら、わたしにも同じことをしてくださるかもしれない。”と思うに至ったならば、あなたは私の証しを正しく聞いたことになります。

多くの人々が聖書の中のパウロの体験を読んだ後にこう言います。”使徒パウロのような

偉大な人達だけが豊かに主の御業を体験することができるのだ。神様はパウロにされたようなことを私のためにして下さるはずがない。”もし、それが本当ならそこに書いてあることが全く私たちに当てはまらないのですから、聖書を読む意味はなくなってしまいます。聖書はパウロやエリヤのような偉人の物語を書いた単なる歴史書にすぎないということになります。しかしヤコブはこう言っています。”エリヤは、私たちと同じ人間であった。”(ヤコブの手紙5章17節)それでもなお、このエリヤは最も偉大な預言者のひとりでした。主はカルメル山での彼の祈りに応えて天から主の火を下らせ、繙祭を焼きつくされました。(列王紀上18章38節)主があなたにも同じことをするように望まれたことはありませんでしたか?結局エリヤも私たちと同じ人間だったのです。

カルメル山での出来事が起こるずっと以前にエリヤはすでにイスラエルの地には数年雨が降らないということを言明していました。(列王紀上17章1節)これは主にそむいたイスラエルに対する裁きでした。そして確かに、カルメル山でエリヤが雨乞いの祈りを捧げたあの忘れがたい日までの3年半の間、主は雨をせき止められました。(列王紀上18章1節、45節)主はひとりの人間を用いられました。イスラエルの民をご自身のもとへ取り戻すために私たちと同じ人間でしかも私たちと同じ弱点を持った人間を用いられたのです。もしあなたもエリヤのように祈るならば、神様は同じく強力にあなたを用いて下さいます。この時代、いかに主とともに歩くべきかを知り、神様に力強く用いられる人々が切に必要とされています。

第1章

わが青春の夢

私の生い立ち

まず私の生い立ちからお話しましょう。わたしの父方の祖父は福建に住んでいました。彼は貧しい家の生まれでしたが、なんとか大学を卒業するところまでいきました。(これは当時の中国ではかなりの成功でした。)贅沢な暮らしをすることも出来たでしょうが、彼は福音を伝えるために全てをなげうって長老教会の聖職者になりました。当時聖職者は薄給だったので、彼の3人の息子と1人の娘は比較的貧困な中で育ちました。

彼の3人の息子はみんなとても成績優秀でしたが、その中でも最も秀でていたのは、長男だった私の父、張天澤でした。わたしの父はクリスチャン・ホームで育てられましたが、霊的なことには特に興味を示さずノン・クリスチャンとして大人になりました。彼は貧乏生活がいやだったので、もっといい生活ができるようになろうと決意しました。平均点が97点だったので試験なしで北京大学に入り、大学の平均点の最高記録を破って卒業しました。それから修士号取得のためアメリカのハーバード大学へ送られましたが、9ヶ月で終了し、ハーバードではあきたらず、博士号取得のためヨーロッパへ行きました。

彼は驚異的な記憶力を持ち、語学に信じがたい程の才能がありました。単なる楽しみのために語学を習っていました。フランス語をたった3ヶ月勉強しただけなのに、あまりにも流暢に話すのでみんなフランスの大学で勉強してきたのかと思ったほどでした。(実際、彼はほんのしばらくの間パリのソルボンヌ大学で勉強していました。)ドイツ語も習得しようと、ハイデルベルグ大学へ3ヶ月間行きましたが、3ヵ月後にはドイツ語がペラペラになっていました。彼はどんどん高慢になり自分の能力に自信を持っていきました。。ハーバードであれヨーロッパであれ、どこで勉強しても次から次へと奨学金が与えられました。実際、奨学金として受け取ったお金で二人の弟を大学へ行かせたうえにアメリカへファースト・クラスに乗って旅行することができるほどでした。かれは快適ないい生活を味わいました。

これが私の家族背景です。ひとり息子の私はインテリな父の影響を非常に強く受けて育ちました。わたしの父は知的チャレンジを愛する人であったと同時にまた自分の国を非常に愛している人でもありました。彼の夢は中国を中世から引き上げて、繁栄する近代国家つまり新しい中国にすることでした。彼は中国の再建はまず経済から始め、そして次に軍隊であるべきだと考えたので、経済学を勉強しました。彼は強力な科学的先進国家を築くには強固な経済構造が必要だと信じていたのです。

またわたしは父の影響で非常に愛国主義的になりました。父はいつも中国の過去の輝かしい時代のことをわたしに話して聞かせました。私の心に反帝国主義的、反植民地主義的思想の種を蒔いたのは父でした。父は他の国々が中国の弱みに付け込んで中国から略奪し、不平等条約を結んで中国を侮辱していることに大変立腹していました。そういうわけで、私は西洋人に対して強い敵意を感じながら育ちました。フランス租界、イギリス租界、日本租界など様々な国家によって分割された上海の街で育ったことで、わたしの反西洋感情はますます助長されました。おそらくあなた方も写真などで見かけたことがあるかもしれませんが、公園の入り口には”犬と中国人は立ち入り禁止”という看板がありました。いたることろに外国人兵士がいました。ある時私はイギリス兵が中国人の仕立て屋を殴ったり蹴ったりしているの見ました。わたしは心の中でこう言いました。”お前達、待っていろよ。いつか近いうちに思い知らせてやるからな!”

私の野心

私は父の愛国心に共感していましたが、私の野心は彼のとは違っていました。父は強い経済基盤を築くことを力説していましたが、私は強い軍隊を作ることを主調していました。

私はお小遣いを全て軍事科学の本に費やしました。三国志の諸葛亮に魅了され随分勉強しました。

私は強い体を作って模範を示すことが大切だと感じて武術を習いました。柔道やボクシングの強化訓練でわたしは非常に筋骨逞しくなりました。わたしは体を鍛えるためにあらゆるスポーツをやりました。指導力を身につけるためにわたしは単独で野球(ソフトボール)チームを作って訓練しました。野球のことなど何も知らなかったので、わたしは野球のことが書かれた本を読んで、野球の技術を独学しました。そして同じく野球のことなど何も知らない幾人かの青年を訓練し、2年間で”A”クラスでプレイし、上海のトップチームと戦うまでになりました。我々の秘訣は何だったのでしょうか?それは献身と共同精神〔チーム・スピリット〕です。

わたしは肉体だけでなく、精神的な面でも、また霊的な面においても自分を訓練しました。わたしは諸葛亮やその他の古代中国の英雄達が天文学や占星術にも非常に長けていたことに気が付いていました。彼らは星を勉強し、多くの驚くべき預言をしました。それでわたしも星を勉強することにしたのです。ある時わたしはアメリカが1941年の終わり頃に大きな戦争に巻き込まれると預言している占星術の本を手にしました。そしてその本の出版された年を見ると、なんと1935年でした!わたしはその正確さにいたく感動したのでその本を勉強して、占星術について多くのことを学び、ある人の顔を見ただけでその人の生まれ月を当てることができるまでになりました。ひとびとはその人自身のことやあるいは出来事などを知る私の能力にとても驚きました。わたしは体験的に占星術がある程度までは本当だということを知っています。確かに偽の星占いで人をだます山師は沢山いますが、本当に占星術を理解している人もいるのです。(もちろんクリスチャンになった時占いやそれに類似したことにかかわってはいけないと聖書で警告されているので、こういうことからはきっぱり手を引きました。)

わたしは寝すぎていると思い、軍事科学の勉強にもっと多くの時間を費やすために睡眠時間を削りました。これでわたしがどういう人間だったかがおわかりになると思います。とても果断で規律正しかったのです。知的教養、肉体の鍛錬、占星術の知識などで自分の野心を成就すべく着々と準備を整えていきました。

私の反キリスト教感情

しかし、わたしは父から中国にいる外国人のことについて話して聞かせられたことでさらにどんどん反クリスチャン的になっていきました。父はわたしに、中国にいる宣教師の多くは、宣教をしているふりをしているが、実際は中国各地に送り込まれたスパイで、中国の軍隊や経済の状況についての情報を自国に送り返しているのだと言いました。

私はまだ小学生だった頃から反キリスト教感情を抱いていました。両親はわたしをカソリックの小学校に入れましたが、それは両親が信者だったからではなく、上海のカソリック・スクールは非常にレベルが高かったからです。悲しいことに、学校でわたしは完全にカソリック信者にうんざりさせられました。大方の神父はいやなやつでした。彼らにクリスチャンらしいところは少しも見られませんでした。冷たくて、愛情のかけらもなく、生徒のことなど全く気にかけていないようでした。カソリックの寄宿学校での生活はまるで監獄のようでした。高い壁があり、窓にはすべて太い鉄格子がはめられていました。私は2回学校から逃げ出しました。全てが権威主義的にコントロールされていました。教室に行く時も、食堂へ行く時も、寝室へ行く時も、いつも列を作って行進させられました。わたしの反キリスト教感情はますます強くなってゆき、わたしが神様を信じることを難しくしました。共産主義者が現れるまでその状態は続きました。

戦時下

戦時中わたしの父は政府高官として南京で行政を司っていました。南京の父の行政区は独自の王国のようでした。独自の兵隊に警備され、城壁と発電機がありました。父の管理下にいくつかの軍隊があり、2人の将校がいました。(そのうちのひとりはあの有名な孫立人で、のちに台湾の参謀総長になった人物です。)わたしは国民党のもとでほとんど限りない権力を享受して育ちました。わたしはまだ10代の少年でしたが、わたしが通り過ぎる時にはいつも衛兵がわたしに敬礼し、政府の役人がわたしに挨拶をしました。わたしが上海から南京まで旅行する時は高級官僚が上海のわたしの家に迎えにきて公用車で駅まで送りとどけ、南京に着くと、別の役人達がわたしを父のオフィスまでエスコートしてくれました。わたしが享受した特権と権力は若者だったわたしに良くない影響をもたらしました。

戦争が激化していました。国民党はどんどん南下して行く共産党との戦いに次から次へと敗れていきました。わたしの父は戦うか退くかの決断を余儀なくされました。また一方で、父は国民党の間に広がる腐敗に大変うんざりしていました。多くの国民党軍は半自主的で、中央政府の統制下に属していませんでした。このことが職権濫用につながりました。父は中国にはびこっていた腐敗にうんざりしていました。腐敗に反対する父の姿勢が仲間の政府官僚の間で物議をかもしました。彼の指導者で時の総理大臣だった王雲五が辞職した時、それを機にわたしの父は他の幾人かの同僚と団結して辞職しました。共産党が上海に着く調度直前に彼は政府から退いたのです。

共産党が来た時、国民党は上海から退散しました。しかしわたしの父は去るのを拒みました。父の友人達は小さな市の市長クラスの役人でさえ処刑されていると父に警告しました。しかし、わたしの父は”わたしの記録にとがむべきことはなにもない。わたしは祖国にそむくようなことは何もしていない。わたしには恥じることは何もない。日本人とも戦ったし、祖国のために奉仕してきた。共産党がわたしを撃ち殺したければそのようにするがいい、ただし、彼らはわたしを何の罪に問うているのかを言うべきだ。”果たして、共産党が上海に来た時、彼らはわたし達を煩わせることは全くありませんでした。毎日人々は処刑されていましたが、共産党本部がスパイからわたしの父について良い報告を受けていたので、彼らはわたし達を邪魔しないでほうっておいてくれたのです。彼らは父の記録を潔白とみなしました。つまり父は祖国、あるいは共産党にすら敵対していると推定されるようなことは何もしていなかったということです。

後に彼らはわたしの父を共産党政府に奉仕させようとしましたが、父は”忠誠は我々中国人の信条です。ですから、ひとつの政府に奉仕した後に、また別の政府に奉仕することはできません。”と言って断りました。父はこれは半ば言い訳だといっていました。後に彼らは父に北京大学で教鞭をとるように勧めましたが、父はまたその申し出を断りました。しかし、父は中国に残ることを決意していました。なぜなら父は共産党がいかにこの新しい中国を築いていくのかを自分の目で見たかったからです。そういうわけで家族全員が中国に残りました。1952年にわたしの母は深刻な健康問題(結核)のため中国を離れました。わたしの父がとうとう中国を去ることに決めた時、彼らはそれを許可しませんでした。しかし、父は何とか機会を得て、1953年に中国を離れました。こうしてわたしはお金も財産もなく中国でひとりぼっちになってしまいました。あたらしく強力な中国を築くというわたしの夢はいったいどうなってしまったのでしょうか?

弁証法的唯物論に直面して

わたしはどうするのか決めざるをえませんでした。共産党が中国を牛耳っていました。残りの人生をわたしはどのように過ごせばいいのでしょうか?ひとつの道は共産党に加担して一緒にやっていくことでした。軍隊に入り、党員としての等級を上げていくこともできます。(中学高学年の学生だった私は軍隊ですぐに士官から始めることが出来たので、それはさほど難しいことではありませんでした。)そうすれば共産党軍で何かを成し遂げることもできるかもしれません。

しかし、本当に共産主義を信望していなければ、本物の共産主義者にはなれませんから、わたしにはそのふりをすることはどうしてもできませんでした。しかし、また一方で、少なくとも共産主義にわたしを納得させるチャンスを与えて見るべきではないかとも感じていました。それでわたしは弁証法的唯物論についての共産主義の本と共産党の歴史についての本を読み始めました。いくらか軍事科学の知識を持っていたので、共産党の歴史を非常におもしろいと思いました。というのも毛沢東主席の優秀な軍事戦略がいくつか説明されていたからです。

しかし、共産主義の書物を勉強しても、わたしは共産主義者にはなりませんでした。逆に、わたしは弁証法的唯物論は馬鹿げていて非論理的な教義だという結論に達しました。弁証法的唯物論はわたしをますます共産主義びいきにするどころか、むしろもっと反共産主義的にさせました。(今になって振り返ると、弁証法的唯物論はおそらく後にわたしがクリスチャンになるのに役立ったといえるかもしれません。)討論の授業で共産党青年同盟のメンバーの中にすらそれに同意しないものがいたことがわかりました。ある時、だれかが党のメンバーに生命の源について質問しました。すると彼はこう答えました。”それは簡単だよ。生命は非生命から来たんだ!”わたしは共産主義びいきの学生でさえその答えは不愉快だと感じたことを憶えています。なぜならそんなことが起こるチャンスはとうていないからです。実際、生命が非生命から来ると信じるのは生命が創造されたということを信じるよりもよっぽど強い信仰が必要です。しかしわたしはこれらの問題についてあまり関心がありませんでした。わたしにとって唯一気になっていたのは次に何をすべきかということでした。

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