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I Have a Dream! 私には夢がある!

私には夢がある!

エリック・チャン牧師による”質の高い生き方”についての説教集第3話

95年イースター 於モントリオール

あなたには夢がありますか?それはどんな夢ですか?あなたはマーティン・ルーサー・キングのようにその夢のために死ぬことができますか?私はアメリカを旅行している時、たくさんの街の通りがマーティン・ルーサー・キングの名をとって命名されていることに気がつきました。彼の夢はアメリカ人に強烈な影響をもたらしているようです。彼は希望のシンボルであり、アメリカ人にとっての理想像となりました。彼の夢の結果、アフリカ系アメリカ人は今日アメリカ合衆国においてより良い地位を獲得しました。彼の夢はその為に死ぬほどの価値があったのでしょうか?明らかに彼の死はその夢をかなえる強力な要素になったといえます。

夢を持つことは必要です。

夢はあなたの人生の方向を決定します。もし夢がなければ方向もないということになります。もしあなたの夢が良い家と良い車を持つことだとしたら、それがあなたの人生の全てということになるでしょう。家と車を手に入れた時点で、もうあなたには夢が無くなってしまいます。夢はもうかなってしまったからです。

美しい夢についてお話したいと思います。また、夢が悪夢に変わることもあるという厳しい現実についてもお話したいと思います。

私たちクリスチャンは夢見る者でなければなりません。神様は私たちに聖霊を与えてくださる時、私たちを夢見る者とすることを約束してくださいます。”その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は予言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。”(ヨエル記2章28節、使徒行伝2章17節)私はほとんどのクリスチャンがビジョン或いは夢を持っていないことに苛立ちを覚えます。神様は私たちに夢を啓示されます。ビジョンもなければ夢もないクリスチャンほど退屈でさえないものはありません。こういうクリスチャンには神様の霊は宿っていません。聖書では、人がビジョンを持たない時、その人は死んでいると言われています。

どうして夢はかなわないのでしょう?

しかし現実は非常に厳しく、夢は悪夢に変わることがあります。今日の中国を例に取って見ましょう。今やこの国にはビジョンがありません。かつてはこの国の前には共産主義という空想的社会改革の夢がありました。しかし今その夢は破れ、悪夢となりました。

夢見る者でなければならない一方で、私たちは夢が実現するのかどうかという厳しい現実をはっきりと理解しなければりません。常に両足をしっかり地に着けていなければならないのです。

何故私たちの夢はかなわないのでしょう?それは厳しい現実に立ち向かうことが出来ないからです。それは私たちの心の中にある罪と呼ばれています。罪は常に夢を悪夢に変えてしまいます。私たちはこのことを自分の経験から知っています。結婚する時、カップルは最初美しい夢を抱いています。お互いを見つめ合い、微笑みを交し、また言葉を交わす様子を見てごらんなさい。教会での結婚式、オルガンの音楽、花、白いドレスの花嫁、さっそうと黒いスーツを着た花婿 - まさに夢のようです。私は多くの結婚式を司祭してきました。そしていつもこう祈ります。「この夢がいつまでも続きますように。」そしてまるで青天の霹靂というように彼らは夢から覚めて言い争ったりけんかしたりし始めます。間もなくその2人は結婚カウンセリングに私の所にやって来ます。

どのように夢は悪夢に変わるのでしょう?

一体どうして、その美しい夢に何が起こって悪夢となってしまったのでしょうか?以前私はあるカップルから夜遅く電話で結婚カウンセリングを頼まれたことがありました。彼らの夢が悪夢に変わってしまったという話を2時間にわたって聞きました。妻の方は泣き止むことができませんでした。全く悪夢です!

しかし、あなたはこう思っているかもしれません、クリスチャンとしての人生はすでに悪夢だと。人生において一体何を夢見ることが残されているでしょう?聖と義なる恐るべき神が私たちの一挙一動を御覧になっていて、失敗すると必ず罰が待っています。毎日罪と悪戦苦闘し、ほとんどの場合は打ち負かされてしまうのです。悪夢とまではいかなくとも、少なくとも頭痛の種だと言えるでしょう。終末の時には、私たちは主の前に這い出てこう繰り返すのです。「ごめんなさい。申し訳ありません。すみません。」クリスチャンとしての人生は全くもって後悔の連続のようです。過去2回の説教でピリピ人への手紙4章4節とテモテへの第一の手紙6章17節を読みましたが、そこでパウロは喜びについて、神様が全てのことを豊かに与えて私たちを喜ばせてくださっていることについて語っています。それは私たちが全く知らない違った種類のキリスト教のように見えます。

罪は私たちの夢を壊します。

私たちの夢を壊すのは、罪という現実です。この”罪”という言葉を見る時、神様がいつも私たちが罪人であることを思い出させ、地獄の恐怖で私たちを脅かそうとしているという見方をしてはなりません。時々私たちは神様を、厳しく理性を欠いた自分の父親とだぶらせることがあります。しかし、神様はそのような方ではありません。むしろ、神様は私たちを愛してくださるがゆえに罪から私たちを救おうとしてくださっていると言う見方をしなければなりません。神様は私たちに神様の愛を理解して欲しいと望んでおられ、愛しげにこう言われるのです。「私はあなた方を愛しています。私の愛についてあなた方に語りたい。」

罪は私たちの人生の質を損ないます。罪は束の間の歓楽をもたらすけれど、喜びを奪い取ってしまいます。(ヘブル人への手紙)もし、罪が何らかの歓楽をもたらさないならば、誰も罪など犯さないでしょう。人々はより良い生活を求めて行動します。ですからもし罪が束の間でもいくらかの歓楽をもたらすならば、罪を犯してみてもいいではないかと考えてしまいます。しかし、さらにその先の結果を考えなければいけません。束の間の歓楽ではなく、長い目で見た喜びを望んでいるからです。

ただで何かを得たいという気持ちから、多くの人が店から物を盗んだりします。カナダだけで、年間に万引きの損害は24億ドルに及んでいます。想像できますか?100万ドルどころの話ではありません。100万ドルの1,000倍(つまり10億ドル)でもなく、24億ドルです。10億にはゼロが9つもつくのです!全くたじろいでしまいます。カナダ中の男性、女性、子供につき1人平均83ドルということになります。あなたも私も年間83ドル以上(ほとんどの子供は払いませんから)も他人が盗んだもののために支払っていることになります。ですから罪というのは私たちが教会の中でのみ話題にしていることではないのです。罪というのはカナダで万引きをしているこれらの困った人たちのことで、そのために私たちが支払いをしているのです。中には万引きで捕まって、その結果犯罪歴によって将来が台無しになる人もいます。この種の罪は誰にとっても夢を悪夢に変えてしまいます。

罪は結婚生活を壊してしまいます。結婚生活が破壊されると夫婦以外に子供や家族にも苦しみがもたらされます。どうして結婚生活は壊れてしまうのでしょう?それは自分本意や要求ばかりおしつける態度、その他様々な形での罪が原因です。先ほどお話した奥さんが2時間以上も泣き続けたカップルの場合、ご主人はこう繰り返しました。「私には権利がある!私は主人だ。だから私には権利がある!」その台詞に聞き飽きて、私は彼に問題は彼の信じられないくらいの自分本意さにあると言いました。彼の目には彼女にはもはや何の権利も無かったのです。このように夫と妻が権利について争うという心的状態は私には理解できません。

夢とは何でしょう?

夢とはいったい何でしょうか?私はとても実際的な人間です。教会を建てようとする時、私たちは夢或いは概念を持たなければなりません。皆で一所懸命働かねばならないのは事実ですが、では一体それは何のためでしょうか?美しい建築物を建てようとするならば、その建築物を心に思い描くことが出来なければなりません。心に明確な概念を持っていなければならないということです。

私たちは新しい社会として教会を作ることを召されています。不幸なことに今日私たちが”教会”というと、教会の建物か或いは多かれ少なかれ人の集まりのことを考えますが、教会を神様によって考案された新しい社会という風には思わないのです。

例えば中国を例に取ってみると、中国はもはや新しい社会の夢を抱いていません。もし、中国が夢をなくしてしまったら、滅びてしまうでしょう。ですからもし私たちが中国のことを思いやるなら、中国に夢を取り戻させなければなりません。一度ならず中国を訪れた時、私の心はとても重く沈み込みました。中国では、特にまだ理想を失っていないはずの若者の間で、もはや方向性がありません。私が話しをした学生達は勉強することに前途を見出せないようでした。

色々な意味で前途が見出せないのです。まず最初に若者に対して、中国にはもはや方向性がありません。一体何処に向かっているのか分からないのです。次に大学を卒業しても十分なお金を稼ぐことが出来ません。ささやかに自分で商売をしている人たちや或いは道端でTシャツを売っている人の方がよっぽど儲けています。一体それでは何のために勉強するのでしょうか?

それに加えて、国家のために何かをやろうとする人は誰もいないようです。後をたたない腐敗がわずかに残された夢すらも壊してしまいます。おそらくこれらの共産党主義者たちもかつては新しい社会の夢を持っていたのでしょう。しかし今やその夢を失ってしまったのです。誰もが地位を利用して金持ちになろうとしています。こんなことが続けば、私たちの祖国中国がどうなってしまうか分かりますか?

海外にいる私たちはただ座ってこう言うのです。「私たちにはどうしようもない。」いいえ、もし私たちに夢があるなら何かしらできることがあります。ですから私は神様は夢を与えてくださる方だと言ったのです。五旬際で、ヨエル書2章の予言―聖霊の降臨―が成就されました。(実際、使徒行伝2章で引用されています。)

幻(ビジョン)を見たことがありますか?

あなたは聖霊を授かりましたか?ビジョンを見たことがありますか?そのビジョンによって、あなたはあらゆる苦難に耐えることができるのです。それがクリスチャンのビジョンの重要な点です。クリスチャンは厳しい現実を知りつつ、それでもなおそれを乗り越えて行くのです。あるクリスチャンが困難にぶつかるたびにくじけてしまうなら、彼がビジョンを持っていないことが分かります。不幸なことに、教会にはこのようなクリスチャンがあまりにも多くいます。キリストの戦士となり、あらゆる困難に耐えるには、そのために死もいとわないというほどの夢をもたなければなりません。

神様の聖霊が宿った時、あなたが夢をつかむようお祈りします。罪と罪を援護する者たちが何処に行ってもあなたの邪魔をするので困難が絶える事はないでしょう。あなたが夢を持っている時、最大の敵はクリスチャンであったりすることも覚悟しておきなさい。それは人生最大の衝撃となるかもしれません。何故なら夢を持つ人は必ず夢を持たない人に対抗されるからです。笑い者にしたり、邪魔したりしてくるのです。旧約聖書の中に偉大な夢見る人、ヨセフがいます。彼の夢のせいで、実の兄弟たちですら彼を殺そうとしました。神様の御介入のゆえに彼は生き延びることが出来ました。全く驚くべきことではありませんか?

随分以前にまだ共産主義者たちが夢を持っていた頃、彼らは喜んで長い行軍を続けるつもりでいました。彼らはあらゆる困難に耐えました。多くの者たちが夢のために命を落としました。しかし今その夢は破れました。喜んで苦しみに耐える人はもう誰もいません。今は腐敗の時代です。同じように、教会が夢を持たなくなると、教会にも腐敗が起こります。愛が不足します。真理に反対する者さえ現れます。それが夢見る者が直面する厳しい現実です。

罪の威力

この世の中には罪が存在します。罪の威力はなんと恐ろしいことでしょう!つい最近ある息子が遺産欲しさに殺し屋を雇って自分の両親を殺そうとしたというニュースを聞きました。その息子は親の遺産で罪の歓楽に耽りたかったのです。しかし、彼にはそのお金を使って楽しむ時間はあまり残されていません。何故ならこれから彼は人生のほとんどを監獄で殺人のことを考えて過ごさなければならないからです。歓楽を望む利己的な欲求は両親を殺すことをも厭わないほどの威力があります。親子間の愛と敬意は、私たちの夢の実現にとっての重要な動因です。しかし罪はあらゆる動因と命の特質を破壊します。あなたは、罪をただ単に聖書の中の神学的概念と考えているのですか?そうではありません。罪は人生における現実です。子が親を殺し、また親が子を殺すというように。とても恐ろしいことです。

ですから夢を実現させるためには、私たちは罪を克服する力を持たなければなりません。まず私たちの中にある罪を克服しなければなりません。何故なら罪は私たち1人1人の中に存在しているからです。現実的に考えてみましょう。もし私たちが自分の結婚生活でさえうまく営むことができなければ、一体どのように現実的な夢を持つことができるでしょうか?多くの結婚生活が調和を欠いています。多くの夫婦が絶え間なく緊張状態にあります。もし私たちの結婚生活が苦痛以外の何ものでもなければ、美しい夢の喜びは一体何処にあるのでしょうか?もし神様の力が結婚生活の問題を克服するのにも十分でないなら、新しい社会を築くのに足りる力は一体何処にあるのでしょうか?

私は夢見る者ですが、また現実主義者でもあります。私は来るべき困難に関して幻想は抱いていません。私たちは罪の問題の現実を知っているけれども、それを克服する力を持っています。

夢の中身

私たちの夢は何でしょうか?夢の中身を見てみましょう。この新しい社会の原理は何なのでしょうか?私たちが一緒に築こうとしているのは一体何なのでしょうか?まずローマ書15章1-5節に書かれている一番最初の基本原理からスタートしてみましょう。

わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ、”あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった”と書いてあるとおりであった。これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ・・・

この中の”喜ばせる”という言葉に注目していただきたいと思います。第1節では”自分だけを喜ばせるのではなく”、第2節では”わたしたちひとりびとりは隣り人を喜ばすべきである”、そして第3節では”キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった”と書かれています。それから、4節と5節に”慰め”という言葉が続きます。このことによって私たちは、互いを喜ばせるというのは隣り人を慰めまた徳を高めることであるということを理解することが出来ます。

さて、それでは人々がもはや自分だけを喜ばせることをしないで、いつも隣り人を慰め、徳を高める社会を思い描いて見ましょう。

そのことを結婚に当てはめると

そのことを結婚に当てはめてみてください。何故結婚生活は壊れてしまうのでしょうか。最初の求婚期間中やハネムーンの間とてもうまくいっていた結婚がどのようにして早々とだめになっていくのでしょうか?答えはとても単純です。その秘密はまさにここにあります。単純ですが真理です。真理というのはとても複雑でなければ真理ではないと思ってはいけません。真理について大切なことは、とても単純でありながら、それでいて実行し難いということです。

ご覧のとおり、結婚前は一生懸命相手を喜ばせようとします。「君はどうしたい?何処に行きたい?これを買いましょうか?これかあれかどっちが好きですか?」と聞き続けます。お互いにいつも相手を喜ばせようとします。そうして、一緒に教会堂の側廊を歩くのはどんなに甘美なことでしょう!

しかし、結婚後はどうでしょう?ハネムーンが終わるや否や、まず原則に根本的な変化が生じます。さあ、あなたは私を喜ばせなければいけません!これでは、どんな人間関係もうまくいきません。親子間でも同じです。私たちはそれを”ジェネレーションギャップ”というような体裁の良い言葉で呼んでいますが、問題はかなり簡単なことです。親は親だからと言うだけの理由で、子供が自分たちを喜ばせるべきだと主張します。一方、子供は「まずそっちが私を喜ばせてくれないなら、どうして私があなたを喜ばせなくてはならないのか?」と考えます。このようにして人間関係がぎくしゃくしてくるのです。

もし私たちが、”お互いを喜ばせる”という原則に従ったとしたらどうなるでしょうか?

結婚したら、夫婦は共通の夢を分かち合うべきです。もしその夢がただ一緒に楽しく過ごすということだけであれば、それは夢といえるほどのものではありません。しかし、もし共通の目的と方向を分かち合うなら、神様のために共に何かを成就することができるでしょう。それならば、その結婚には目標と夢があるといえます。しかしこの目標は分かち合われなければなりません。もし1人は夢を持っていて、もう1人はそうでないなら、うまくいきません。”喜ばせる”というのは”へつらう”ことではありません。”喜ばせる”というはその人が聞きたがっていることを言うことではありません。共通の目標に向かって進んで行けるように互いを励ますということです。

教会での類似した問題

教会でも同じような問題が起こります。私たちはお互いに期待を持っています。クリスチャンなのだから、もっと分別があるべきだとか、こうすべきだ、ああすべきだなどと要求します。また、あなたは十分霊的でないとか、あなたは私が理解している神様の標準に達していないとか、こういう期待を持つ結果、私たちはお互いにプレッシャーをかけあうことになります。

しかし、夢は人々を鼓舞するはずのものです。夢があると人々はそれに引きつけられます。無理に押し付ける必要はありません。動機を与えられれば、人々は喜んでやります。しかし、夢がなくなってしまうと、毎日叱り付けたとしても何の役にも立ちません。それではますます問題を悪化させるだけです。

私は以前野球チームのコーチをしていました。コーチとして選手に強いることもできるし、或いは励ますこともできます。怒鳴りつけてもっと上手くなるように強いることもできれば、頑張って努力しているんだからきっと上手くなるよと言うことも出来ます。そして更に、もっと上手くプレーして勝つ方法を教えてあげます。目前に目標を掲げて、それに到達するように励ますのです。方法は違いますが、励ましはすばらしい効果をもたらします。

私自身、個人的にこのことをもっと学ばなければなりません。私は称賛を与えることにおいてとてもケチな人間です。去年、教会の礼拝の後、私がある同僚にとても良い説教だったよと言った時、彼はとても驚いてあごが外れんばかりでした。「あなたからそんなことを言われるなんて本当に珍しい。」と彼は言いました。後から彼の言ったことを考えてみて、私は悔悟させられました。ここ数年、私は称賛したことがほとんどなかったことに気がつきました。多分それは私が同僚に対して標準を高くしようとしているからです。しかし十分な励ましの言葉をかけてこなかったことは私の失敗でした。

思いやりに基づいた新しい社会

ただこの点だけについて、神様が私たちに与えてくださった夢に基づいた新しい社会のことを考えてみてください。例えば、この新しい社会では私たちの周りにいる貧しい人びとをどのように思いやるべきでしょうか?香港では、教会でそのことを実行しようとしています。西洋では、ほとんど政府がそれを実行します。これらのクリスチャン政府-クリスチャンと言っても名ばかりですが-は、聖書の中の新しい社会のアイデアを取り入れてきました。教会が様々な必要に応えるべくやってきたあらゆること(例えば病院や孤児院や養老院など)をこれらのクリスチャン政府が実行しようとしています。しかし、香港ではまだそうではありません。ですから、私たちは教会で周りにいる貧しい人びとやお年寄りの世話をしています。私たちは困っている人を助け、また未亡人の世話をします。私たちの教会では誰一人として飢えたりしません。

ですからこの新しい社会は絵に描いた餅ではありません。私たちは全ての困っている人を思いやるのです。時には、勉強しなければならないけれどお金が無い人びとを助けることもあるでしょう。病気の人々を訪ねていって世話したりもします。教会のあらゆる必要が満たされるのです。使徒行伝2章で、聖霊が降臨した初期のエルサレムの教会では間もなく新しい社会が機能し始めました。金持ちは貧しい者が困らないようにと気前良く分け与えました。誰もが満ち足りていました。

隣り人を喜ばせるというのは、病気であれ孤独であれ、またその他多くの問題であれ、ガラテヤ人への手紙6章2節で”互いに重荷を負い合いなさい。”と言われているように、その人たちの重荷を背負うという意味です。このようにお互いに思いやることが新しい社会の概念です。この社会に属する時、問題はどれくらい受け取ることができるかではなく、どのくらい与えることができるかということです。誰もが与えようとするなら、私たちは有り余るほどの十分な物資の供給を持つことになります。

これらのことをするための復活の力

これらのことを実行するためには心を一新する力がなければなりません。エペソ人への手紙1章19-20節に書かれているように、その力は復活の力です。

また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ・・・

その力の偉大なることは、イエスをよみがえらせ、またあなたと私を死人の中からよみがえらせるということです。パウロは未来についてのみ語っているのではなく、現在のことをも語っているのです。夢を成就させるには人の心を”喜ばせてもらいたい”から”人々の必要を満たしてあげたい”に変える力が必要です。私は神の御国のために献金したいというクリスチャンからの申し出を受けてきました。それもわずかの額ではなく、カナダドルで10万ドル以上です。どうしてこのようなことが可能なのでしょうか?

それは驚くべき神の力です。私たちの心を”何を得られるか”から”何を与えられるか”に変える力です。このようなクリスチャンは良い車を持つことや、上等な服で着飾ることに執着しません。彼らの夢はそういうものではないからです。彼らは復活の力によって変えられたのです。

あなたはどうですか?あなたの夢は何ですか?

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